2014年秋から「NHK朝の連続テレビ小説」で近年まれにみるヒットとなった「マッサン」。
このドラマのブームから、一気にジャパニーズウイスキーの知名度が上がりました。
ドラマの主人公、亀山政春とエリーのモデルとなった人物は、ニッカウヰスキー創始者の竹鶴政孝とその妻、リタ。
ドラマでは、明るくほがらかで、どんな困難にも夫婦で支えあい、前向きに取り組む姿が視聴者の共感を呼びましたが、実際のお二人はどんな人物だったのでしょう。
手元にあるひとつの本を参考に、人物像をご紹介したいと思います。
写真で見る、実際の「竹鶴リタ」の肖像
「リタの鐘が鳴る」早瀬利之著 朝日ソノラマ刊
1995年発行の古い本ですが、2014年のドラマ放送の際、文庫本で再版されていますので、現在でも購入できます。
表紙には、おだやかな微笑みを浮かべてこちらを見ている美しい女性の姿。
ドラマ「マッサン」のエリーのモデルとなった竹鶴リタさん、ご本人です。
ドラマではエリーの姿は活発で明るい女性として描かれていましたが、実際の彼女は幼いころから病弱で、おとなしく、あまり外にも出ず、本ばかり読んでいるような子であったと書かれています。
写真の表情からも、控えめな女性であった印象は受け取れますね。
竹鶴政孝氏と妻リタの生涯をニッカ創設の経緯と共に振り返る
竹鶴政孝氏はなぜリタと出会ったのか?
旧姓、ジェシー・ロベルタ・カウン。4人兄弟の長女で、父親が医師だったので裕福な家庭に育ったようです。右端の黒いドレス姿の女性がリタです。
造り酒屋の三男坊として生まれた竹鶴政孝は、長男、次男があまり家業を継ぐことに協力的でなかったため、家族の期待は政孝にかかっていました。大阪高等工業(現・大阪大学)の醸造課を大正5年に卒業し、大阪の摂津酒造に入社します。
大正7年に第一次世界大戦が終結し、洋酒ブームが巻き起こります。日本には本物のウイスキーなどありませんから、流通するほとんどは模造品で、焼酎やアルコールを砂糖や香料で着色しただけのものでした。
こうして模造品の洋酒で利益を得た摂津酒造は、本物のウイスキーを作ろうと社員であった竹鶴政孝にスコットランドでモルトウイスキーの製造法を学ぶよう打診します。
広島の実家では家族会議が行われ、母は特に大反対だったそうですが、正孝の決心は固く、神戸を出発し、サンフランシスコ経由でイギリスへと渡るのです。
そしてスコットランドでウイスキーの製造法について学ぶうち、グラスゴー大学の図書室でカウン家の次女、エラと出会います。
スコットランドでは聞いたこともない日本という小さな国からやってきた黒髪の東洋人に興味津々のエラは末の弟に柔術を習わせようと政孝を家族に紹介し、家族ぐるみの付き合いが始まります。
これが、政孝とリタの運命的な出会いとなるのです。
スコットランドの小さな田舎町でしとやかに育てられたリタが、その後、まさか日本へ行きたいなどと言い出すとは家族の誰も思わなかったことでしょう。
結局家族の賛同を得られぬまま、二人はスコットランドを離れ、船旅で40日という日数をかけて日本へ渡るのです。
日本のウイスキー産業を陰で支え続けた竹鶴リタ
長旅を終え、日本へ到着したのは大正9年の11月。その当時でも外国人が多く居住する大阪帝塚山に居を構え、二人の新たな生活が始まりますが、リタはイギリスとは全く違う生活様式に当初は大変困惑したようです。
そして、イギリス留学で満を持してウイスキー作りに専念できると思っていた政孝は、会社の景気不振に翻弄され、退社を余儀なくされてしまいます。
その後、本格ウイスキーを製造したいと奔走していた鳥居信治郎氏に見初められ、寿屋(現・サントリー)に入社し、山崎蒸溜所を完成させます。
しかし初の国産ウイスキーは思うように売れず、徐々に鳥居氏と政孝の間に亀裂が生じます。
この間、政孝はリタを連れ、一度イギリスに帰省しています。
竹鶴家で同居していた鳥居氏の長男吉太郎のイギリス研修が目的でした。
日本に渡った時と同じく、約40日の航海を経て、カーカンテロフの自宅でリタは母と再会しました。
この時リタが鞄に沢山入れて持ってきた、見たことのない日本製の美しいお土産の数々に、母や妹は大変驚き、リタが現在日本でどのような暮らしをしているか、伺い知れたと書かれてあります。
イギリスからは正反対の位置にある日本の情報はほとんど入ってこないため、野蛮な国、という印象もあったようです。
リタがイギリスに帰省したのはこの時一度きりで、その後、母と会えることは二度とありませんでした。
その後、日本に帰省してからも、政孝のウイスキー作りはうまくいきませんでした。
鳥居氏との意見の相違から寿屋を退職し、ついに自分でウイスキー作りのできる北海道、余市への移住を決断します。
最初はこの土地でたくさん採れるリンゴを使い、リンゴ果汁を販売していたので会社名を「大日本果汁株式会社」とし、念願かなってウイスキーの生産ができた折、商品名を「ニッカウヰスキー」としたところから会社名が「ニッカ」となりました。
ウイスキーの販売が波に乗るまでは、従業員に給料が払えないほど生活は困窮しましたが、リタは従業員と一緒に冷たい水に手を漬けて瓶を洗うなど、彼女も精一杯勤めました。
自分にもなにかできることはないかと模索するうち、リタは従業員に時間を知らせるため、始業と正午、そして終業時間に鐘を鳴らすことを思いつき、毎日鳴らし続けました。
余市の人たちに時を告げてくれるこの鐘の音を「リタさんの鐘」と呼び、親しまれていましたが、日本へ来てから40年後の冬、もともと体の弱かったリタは余市の自宅で64歳の生涯を閉じました。
一人の女性として、愛した人の信念を支えるということを教えてくれたリタの生涯
遠い異国の地で、激動の時代に翻弄されながらも一人の男性の愛を信じ支え続けたリタ。
実際、竹鶴政孝氏も生涯において彼女を愛し、とても大切にしてくれたようです。
そんな話を聞くと、女性として本当にうらやましいですよね。
もちろん彼女がいなければ、日本のウイスキー産業は現在のような発展はなかったかもしれません。
NHKドラマ「マッサン」では、割と史実に基づいて話が進められているので、今から見ても楽しめます。
「マッサン」ブームの時に以前に刊行され絶版だったニッカ関連の書籍も再版されているものがいくつかあるので、一緒に読んでみるのもおススメです。