日本国内で生産されているウイスキーをジャパニーズウイスキーと呼びます。
毎年多くの種類のジャパニーズウイスキーが国際的なコンペティションで入賞、ひいては最高賞を受賞し、世界にその名を轟かせています。
昨今のジャパニーズウイスキーは、オークションでは超高額で取引され、アジアからの旅行者が爆買いし、蒸溜所は諸外国からの見学者でひしめき合っている状態。
世界中のウイスキー愛好家や投資家から日本のウイスキーは注目されているのです。
はてさて、そんな我が日本国のウイスキーはどのようにして始まって、どのような歴史を歩んできたのでしょうか。
繊細で複雑と言われるフレーバーの製造方法や、クラフトウイスキーブームに沸く各蒸溜所の特徴などを解説していきます。
日本のウイスキーの歴史
黒船がウイスキーを持ってきた!?
この日本で”ウイスキー”が生まれたのは一体いつなのでしょう。
そもそもウイスキー自体が日本に運び込まれたのは鎖国時代まで遡ります。
時は1853年、あの黒船来航でペリー率いるアメリカの艦隊が運んできたと言われています。
「開国してくださいよー」と言いながら、浦賀沖の黒船の中でスコッチウイスキーとアメリカンウイスキーを飲んでいたわけですね。
ちなみに当時交渉にあたった日本の役人や通訳にもウイスキーがふるまわれたといいます。(なお、2度目の来航時には13代将軍・徳川家定にアメリカンウイスキー1樽が献上された記録も残されています。)
そして日本は開国。明治時代を迎えます。
その頃、ウイスキーはもっぱら日本に住む外国人用に輸入されていました。
しかしその輸入量は多くなく、西洋のお酒は主にブランデー、ビール、ベルモット(白ワインにニガヨモギなどの香草を足したフレーバードワイン)などが飲まれていたそうです。
開国からしばらく(50年間くらい)はウイスキーは飲まれなかったようですね。
徐々に西洋の文化が日本に浸透し、洋酒を飲む人々も増えて来た1902年、日英同盟が締結されます。
当時世界最強の先進国であるイギリスと仲良くなった日本はスコッチをバンバン輸入するようになります。
ここからウイスキーが飲まれるようになるわけです。
今も日本でスコッチが多く飲まれている理由が垣間見えますね。
日本初、国産ウイスキーの誕生
1911年に関税自主権(国が輸入品に対して関税を決められる権利)が回復したことによって輸入アルコールに税金がかかってきます。
つまり輸入するウイスキーが高くなったわけです。
こいつぁ困ったということで、それならば国内でウイスキーを造ったらいいのでは?という風に日本国産のウイスキーを造ろうという気運が徐々に高まります。
そして大正12年、西暦でいえば1923年に日本で初めて本格的なウイスキー蒸溜所が大阪府山崎に建てられました。
国内第一号の蒸溜所はみなさんもご存知、「サントリー山崎蒸溜所」。
今はサントリーウイスキー”山崎”を造っている蒸溜所です。
昔、サントリーは「寿屋」という名前の会社でした。その創業者である鳥居信治郎と、寿屋の社員で蒸溜技師の竹鶴政孝が日本初の蒸溜所を創設したのです。
竹鶴政孝氏の功績
日本のウイスキーを解説するにはこの竹鶴氏を置いては語れません。
マッサンこと竹鶴政孝は広島の造り酒屋に生まれました。
酒屋に生まれた時点である程度人生のロードマップは決まっていたようにも見えますが、もちろん家業でもある酒造りを学ぶため大阪高等工業学校醸造科へ入学します。
当時、醸造学の権威であった坪井仙太郎氏に教えを受け酒造りの面白さにハマっていきます。しかし竹鶴氏は日本酒ではなく、洋酒造りをしたいと思い始めます。
卒業後は国産洋酒メーカーのパイオニアである摂津酒造に就職し、洋酒を造りを学びます。
その後、摂津酒造の社長である阿部喜兵衛氏の命を受け、本場スコットランドのウイスキー造りを学ぶため1918年に留学。スペイサイドのロングモーン蒸溜所やキャンベルタウンのヘーゼルバーン蒸溜所でウイスキー製造方法を学び帰国します。
帰国すると、日本は戦時下。景気が悪化し、資金繰りに苦難していた摂津酒造にはウイスキー開発をする余裕はなく、計画は途中で頓挫してしまいます。
竹鶴氏は職にあぶれ、しばらく化学の教師として働きます。
そんな中、日本初の本格ウイスキー製造を目論む鳥居氏に目をかけられ、彼が営む会社、寿屋(現サントリー)にスカウトされます。
こうして寿屋に勤めることになった竹鶴氏は、スコットランドで学んだ知識と経験を活かし、1929年に国産第一号の本格ウイスキー「サントリーウイスキー(通称:白札)」を造り上げたのでした。
この二名は連続テレビ小説「マッサン」にも登場していましたね。
ウイスキーブーム到来
戦前から戦後にかけ、色々な企業がウイスキー事業に参入します。
寿屋退社後に竹鶴氏が設立した大日本果汁株式会社(現在のニッカウヰスキー)や東京醸造、東洋醸造、大黒葡萄酒(現在のメルシャン)、本坊酒造などなど。
さらに1960年以降、高度経済成長期に入ると、トリスバーやニッカバーといった大衆的な洋風バーが数多く登場します。
寿屋、大黒葡萄酒、大日本果汁が次々とヒット商品を投下。
ウイスキーブームを巻き起こし、各都市の酒場を席巻します。
1971年にはスコッチウイスキーの輸入が自由化され、その翌年には関税も引き下げられました。
高級酒の扱いを受けていたウイスキーも手に届きやすくなり輸入洋酒ブームも巻き起こります。
ジョニ黒やオールド・パー、バランタインなどの高級ブレンデッドウイスキーをBARやクラブでボトルキープするのは一種のステイタスとなりました。
この頃にキリンシーグラム社(現在のキリンディスティラリー)も誕生します。
1980年代にはサントリーが発売したオールドが爆発的な売り上げを見せまさに「ウイスキーは日本の国民酒」と呼ばれるまでの大衆酒となります。
もはやウイスキーフィーバーです。
この頃のウイスキーは日本の階層化社会に非常にうまく溶け込んでおり、サラリーマンは会社で昇進するとともに飲めるウイスキーのレベルが上がることで豊かさを実感していました。
サントリーであれば【レッド→ホワイト→トリス→角→オールド→リザーブ→ローヤル】のように給料の増加に伴い、より上級なウイスキーを飲めるという具合でした。
いつか最高級品のウイスキーを自由に飲める身分になりたいと思うことが、この国の高度経済成長と重なったともいえます。
今とはまったく違うヒエラルキーの概念ですが、シンプルでわかりやすい指標であったことは間違いないですね。
このウイスキーフィーバーに触発され、これまでウイスキーを造っていなかった国内酒造会社も、こぞってウイスキー造りに乗り出す「地ウイスキーブーム」も起こりましたが、1983年をピークに消費量は激減します。
低迷の時代
バブル期を頂点に日本のウイスキーフィーバーは打ち止めの様相を見せます。
ウイスキーの消費は完全にダウントレンドに入ってしまうのです。
時代と共にアルコール飲料が多様化し、次々と新しいお酒が出回ります。
食事と合わせやすい軽めのお酒が人気となり、アルコール度数の強いウイスキーは飲まれなくなってしまったのです。
加えて少子高齢化の波が押し寄せます。かつての経済成長を支えた世代は年老いて、退職。居酒屋やBARからウイスキーを飲む層が遠のいてしまいました。
1984年の酒税法改正で3級ウイスキーが、1989年の酒税法改正で2級ウイスキーが大きく値上がりしたことも消費低迷に拍車をかけたと言えます。
ウイスキーは50代~60代の愛飲家だけが飲む孤独なお酒になってしまったのです。
その結果、国内の蒸溜所も次々と操業を停止、もしくは大幅縮小していきます。
「とにかく若者にウイスキーを飲んでもらわないと、ウイスキーの需要はゼロに近くなってしまう」と危惧したサントリーが『角ハイボール』を提案。
25年間の暗黒時代を打ち破り、低迷はついに2008年で底打ちします。
低迷の原因に「価格が安くなったこと」を挙げる方もいます。
1990年代に日本の税制が貿易を阻害しているとされ、酒税が下がりました。
その結果、ウイスキーは贈り物や海外旅行土産の定番だった地位を失い、また、高級品”だからこそ”消費されていた市場を失ったとされる見方です。
経済の原則に反するようですが、「低価格戦略が中期的に需要縮小を招く」のは、ウイスキー以外でも見られる、酒類の独特な特性だと言えます。
再ブーム!そして品切れ、品薄問題
2008年以降、ハイボールブームや世界でシングルモルトが人気となったこと、国際コンペティションにおけるジャパニーズウイスキーの度重なる受賞などを理由に消費傾向が右肩上がりに回復します。
過去にウイスキー造りを行っていた蒸溜所も次々と復活。
2008年には秩父蒸溜所が、2017年には厚岸蒸溜所が稼働し、小さな新しい蒸溜所が各地にでき始めます(クラフトディスティラリーブーム)。
ジャパニーズウイスキーは復活の時を迎えたのです。
しかし同時に問題も露呈されています。
ジャパニーズウイスキーの需要と供給があっていないのです。
ウイスキーはビールやワイン、日本酒とは違い、製造に時間がかかるお酒です。最低でも3年、長いものだと30年以上もの間、樽の中で熟成されます。
つまり造り始めてから販売できるようになるまでとても長い時間を必要とするのです。
低迷時代が長かったため、仕込みが遅れ、すぐに増産するということはできず原酒不足に陥ってしまっています。
ここ数年、山崎や響などの長熟ものは酒販店やスーパーマーケットでは軒並み品切れ、品薄状態が続いており、買うはおろかBARで飲むことすらかなわなくなっています。
その希少性から価格は倍以上に高騰し転売目的での買占めが顕著です。
愛飲家も我先にと希少酒に群がるので、価格は高騰する一方です。
現在はこの状況を打破するため、各社多額の投資をし原酒の増産に取り組んでいます。
体制が整うまでの間は年数表記の無いノンエイジ品やバルクウイスキーを使ったブレンデッド、ユニークな新商品などをリリースすることで間を持たしているというのが実情です。
ジャパニーズウイスキーの特徴
日本のウイスキー造りはまだ100年に満たないですが、独自の進化を遂げてきました。
ウイスキーの風味は、造られる風土に大きく左右されます。
日本の各蒸溜所が建設されている地域は、冷涼で湿潤な気候が多く、水も豊かでウイスキー造りには非常に適した環境といえます。
四季がはっきりとしており、ウイスキーの本場スコットランドの風土とよく似ています。
どんな種類があるの?
造られているウイスキーはスコッチと同じで、モルトウイスキーとグレーンウイスキー、そしてそれを混合したブレンデッドウイスキーがジャパニーズ・ウイスキーの主流です。(※中にはスピリッツや中性アルコールを混和した製品も存在します。)
原料や製法の特徴
モルトウイスキーの原料の大麦はスコットランドやイングランド、フランス、ドイツ、カナダ、オーストラリアなどから輸入されていますが、昨今では国産品を使う蒸溜所も増えてきています。
グレーンウイスキーの原料となる小麦は約9割をアメリカから、小麦はアメリカ、カナダ、オーストラリアから輸入しています。
製造方法についてはスコットランドでウイスキー造りを学んだ竹鶴氏が始祖というだけあって、スコッチウイスキーの造り方にそっくりです。
特徴的なのは1か所の蒸溜所で、発酵から蒸溜、熟成、ブレンド、ボトリングを一貫して行うところ。
モルト原酒やグレーン原酒を造りわけ、ほとんどの製造工程を自社で完結しています。
スコッチの場合は分業制がほとんど。
他社の蒸溜所と自由に樽の交換や売買を行ったり、ブレンドする業者、ボトリング業者などがいたりします。
味の傾向や飲み方は?
スコッチウイスキーをお手本にしていますが、より複雑で繊細な味と評価されています。
日本人の舌に合わせ、スモーキーなフレーバーは控えめで軽くマイルドな仕上がりと言われていましたが、昨今ではクラフトディスティラリーの台頭からスモーキーな銘柄も比較的多く造られるようになってきました。
この味を生み出している要因、それは日本の職人たちの技術の高さです。
ひとつの蒸溜所でスペイサイドモルトのような華やかでフルーティーなものから、アイラモルトのようなヘヴィでスモーキーな原酒までを造り分けるノウハウ、そして世界に評価されるブレンダーの卓越したブレンドスキル。
このような日本人特有のものづくりのこだわりがあって、奥深い味わいのウイスキー造りを可能にしています。
また、日本のミズナラの木でできた樽を使用することがあります。
ミズナラ樽で熟成されたウイスキーは独特な香り(伽羅や白檀といったオリエンタルな香木の香り)をもたらすとされ、世界中のウイスキーラヴァー達に人気です。
ウイスキーの飲み方にも日本独自の傾向が見られます。たとえば他国ではウイスキーは食前酒もしくは食後酒として扱われることが多く、料理と合わせることはあまりありません。しかしハイボールをはじめ、水割り、お湯割りと様々な飲み方で食中に楽しんだりします。焼き魚や刺身も食べちゃうのは珍しいです。
ちなみに「水割り」やBARやスナックで行われる「ボトルキープ」と言われる慣習は日本が発祥の文化です。
“ジャパニーズウイスキー”を名乗る条件
アメリカのバーボンウイスキーやスコットランドのスコッチウイスキーと違い、日本の酒税法では、輸入した原酒を国内でブレンドしたり瓶詰めしたりすれば「国産」と表示することが可能です。
さらに食品表示基準とは違い、「最も多く使っている原料を最初に明記する」必要もありません。
サトウキビの搾りかすなどを原料にした醸造(ブレンド用)アルコールやウォッカなどのスピリッツを混ぜ合わすことが9割まで認められています。
極端に言えば9割は混ぜ物でもジャパニーズウイスキーなのです。
イオンのプライベートブランド・トップバリュの「ウイスキー」、オエノングループ子会社の「香薫」や宝酒造の「凜」は、原材料欄にスピリッツやブレンド用アルコールと記載されているので醸造アルコールが混ざっていますね。
このように『ブレンド用アルコール』を使用してもウイスキーを名乗れるというのは、ほかの世界5大産地ではありえません。
現在、日本洋酒酒造組合ではジャパニーズ・ウイスキーをより詳細に定義化することを検討してます。
主なウイスキーメーカーと蒸溜所
日本国内におけるモルトウイスキーの蒸溜所数はあまり多くありません。スコッチなどと比べると10分の1程度。それはなぜでしょうか。
日本のウイスキー製造免許には「最低製造数量基準」というものがあって、年間約6kgリットル(6,000リットル)の酒類を製造しなければいけない規定があります。
あまり小さい蒸溜所で年間6000リットル出荷するのは至難です。
なので大きな企業が複数の蒸溜所を運営しているパターンが多いのです。
サントリースピリッツ
1899年(明治32年)2月に鳥井信治郎氏が創設。
鳥井商店→株式会社壽屋→サントリー株式会社→サントリースピリッツ株式会社の順で名前が変わり現在に至っています。
大阪に山崎蒸溜所、山梨に白州蒸溜所を持ち、日本初の本格ウイスキー「ホワイト(白札)」を製造しました。
他にも皆さんにおなじみ「角瓶」や「トリス」をはじめ、「山崎」「響」「白州」などのジャパニーズウイスキーを製造販売しています。
巧みな広告戦略で戦後のウイスキー業界ブームを牽引した存在で、日本ウイスキー業界では最大の企業へと成長しました。
イギリスのウイスキー醸造所モリソン・ボウモア社を買収しており「ボウモア」「グレンギリー」「オーヘントッシャン」などのメジャー蒸溜所も保有しています。
2014年には「ジムビーム」「メーカーズマーク」「ラフロイグ」などを保有していたビーム社をも買収し、現時点で世界3位のスピリッツメーカーとなっています。
ニッカウヰスキー
1934年(昭和9年)に竹鶴政孝氏が北海道余市に「大日本果汁株式会社」を設立。この社名を略して「日果(にっか)」。それをカタカナで書くことで現在の「ニッカウヰスキー」となりました。
現在はアサヒビール株式会社の子会社化となっています。
竹鶴氏は、サントリーの前身である寿屋でウイスキー製造をしていましたが、よりスコットランドに近い気候の北海道余市でウイスキー作りを始めたいと思い退社。
設立当初は資金を集めるためリンゴジュースの販売などを行っていました。なので社名が大日本果汁だったわけです。
北海道余市郡に余市蒸溜所、宮城県仙台市に宮城峡蒸溜所を所有しており、「余市」「宮城峡」をはじめ「竹鶴」「ブラックニッカ」「フロム・ザ・バレル」などを製造販売しています。
石炭直火焚きのポットスチル(余市)や、カフェ式連続蒸溜器(宮城峡)など、スコットランド仕込みの伝統的スタイルを用いたウイスキー造りをしています。
なお、スコットランドにあるベンネヴィス蒸溜所もニッカが保有しています。
キリンディスティラリー
1972年(昭和47年)に 麒麟麦酒(日本)、JEシーグラム(米)、シーバス・ブラザーズ(英)3社が合弁してキリン・シーグラム株式会社を設立しました。
翌年には静岡県御殿場の富士山麓に「富士御殿場蒸溜所」を開設し、ウイスキー製造を開始。
富士の気候は夏は涼しく、冬は厳しい寒さになります。湿潤な気候で霧が多く、水も豊富。非常にウイスキー造りに適した環境でした。
そこにシーグラムやシーバスといった世界的なウイスキーメーカーの技術が結集し、次々にとハイクオリティな銘柄をリリースしています。
代表銘柄は「富士山麓」や「ロバートブラウン」。ウイスキー以外にもブランデー、缶チューハイ、缶ハイボール、ミネラルウォーターなどを製造しています。
現在はキリンビール社と統合し、キリンディスティラリー株式会社となっています。
ベンチャーウイスキー
2004年(平成16年)に東亜酒造創業者の孫、肥土伊知郎(あくといちろう)氏が創業。
江戸から続く造り酒屋の東亜酒造の経営が悪化し、埼玉県羽生市の蒸溜所は売却。そして行き場を失った400樽のウイスキー原酒を引き取るところから始まりました。
引き取った原酒にウッドフィニッシュなどを施し、バーを巡りながら2年かけて600本のウイスキーを売り切ることに成功。
2008年に埼玉県秩父市に「秩父蒸溜所」を設立します。
2011年に「秩父ザ・ファースト」を発表後「カードシリーズ」「ギンコー」「ダブルディスティラリーズ」「MWR」「秩父」などをリリース。
国際的なウイスキーの品評会で数々のタイトルを獲得します。「イチローズモルト」の名は世界に評価され、その人気の高まりから値段が異常高騰している銘柄も多数存在します。
現在、地元秩父産の大麦(みょうぎ二条や彩の星)やピートを使用したり、オリジナルのミズナラ樽を製造したりと、「オール秩父産ウイスキー」造りを計画しています。
その独自の歩みは世界のウイスキーファンから注目を集めています。
堅展実業
2016年11月、食品原材料の輸入や酒類の輸出を手がける堅展実業(本社:東京)が北海道厚岸町に「厚岸蒸溜所」を開設し稼働させました。
代表の樋田氏はアードベッグ17年に心を打たれた根っからのアイラモルトラヴァー。
そんなアイラモルトのような力強いウイスキー造りを目指しています。
厚岸町は海が近く、周囲は広大な湿原に囲われ、ピートもふんだんに採掘できます。
冷涼湿潤な気候で、ウイスキー造りにはうってつけ。
名産品も牡蠣とまさにアイラ島に酷似した環境です。
2018/2/27に初出荷された厚岸NEW BORNは、若いながらもクリアでフレッシュな風味を放ち、将来性を感じさせる味わいでした。
今後も異業種からウイスキー造りに参入してくる企業が続々と増えてくることを予感させる出来といえるでしょう。
現在は、厚岸産の大麦を厚岸産のピートで乾燥させ、厚岸産のミズナラ樽で熟成させる「厚岸オールスター」を目指し奮闘中です。
笹の川酒造
1765年に福島県郡山市で創業。日本酒や焼酎を250年造り続けている歴史ある酒造です。
1946年にウイスキー免許を取得し、輸入したモルトウイスキーに自前のアルコール飲料を混ぜたブレンデッドウイスキーや「チェリーウイスキー」などを販売していました。
しかし1980年代後半よりウイスキー市場の需要は低迷し、一時生産をストップします。
しかし創業250周年を迎えた2015年、再び燃え上がったウイスキーの火種を逃すまいと蒸溜を再開。
本格的なモルトウイスキー蒸溜所を「安積蒸溜所」を設立しました。
2015年に「山桜」の名称でピュアモルトやブレンデッドのウイスキーを発売し、地ウイスキーファンから高い評価を受ました。
木内酒造
創業は1823年、茨城県那珂の地で酒造りを始め、清酒、焼酎、ワイン、リキュールなどを製造しています。
中でも世界50カ国以上で親しまれている常陸野ネストビールは海外のビールファンを虜にしています。
そんな木内酒造が新たなチャレンジとして選んだのがビールと同じ大麦を原料としたウイスキー造り。
2015年10月5日、額田醸造所内にウイスキーの製造プラントを新設し、製造免許を取得。
「額田蒸溜所」として2016年にウイスキー蒸溜を開始しました。
原料にはドイツ産エールモルトを使用しているそうですが、地元産の大麦や米原料にも挑戦したいと意気込んでいます。
他にも桜や栗の木樽などの熟成も研究しているようで、また新しい製造手法が日本のクラフトディスティラリーから誕生しそうです。
若鶴酒造
1862年創業。富山県砺波郡三郎丸村で清酒製造を行っていた若鶴酒造は、戦後間もない1952年にはウイスキー製造免許を取得し、「サンシャインウイスキー」を発売。
「戦争の中ですべてを失った日本で水と空気と太陽光線からできる蒸溜酒によってふたたび日をのぼらせよう」という思いから「サンシャイン」と命名され、地元の人々に親しまれてきました。
ウイスキー製造を開始した翌年にアルコール工場で火事が起き、工場、食堂、会館、研究室、寮、原料倉庫などのべ約1,000坪を消失しましたが、社長以下全従業員の努力により、半年もかからずに復活した歴史があります。
そんな奇跡的な復興から64年。
小規模ながらウイスキー造りを続けていましたが、施設が老朽化し、かつての蒸溜塔も取り壊されてしまいました。
「北陸唯一の蒸溜所を、そしてこれまで続いてきたウイスキー造りを途絶えさせるわけにはいかない」という想いから2016年に「三郎丸蒸溜所改修プロジェクト」を立ち上げ、クラウドファンディングを敢行。3825万5000円という支援金額を集め、大成功。
「三郎丸蒸溜所」は2017年7月に北陸で唯一の見学できるウイスキー蒸溜所としてリニューアルスタートを切りました。
ガイアフロー株式会社
2012年に誕生した新しい会社で、代表の中村氏は精密部品製造会社からお酒の輸入業者(インポーター)に転身した異色の経歴の持ち主。
しばらくはウイスキーなどの輸入販売を行っていましたが、2015年3月に閉鎖されていたメルシャン軽井沢蒸溜所のウイスキー製造設備を一式を買い取りし、2016年10月に静岡市内に蒸溜所を建設しました。それが「静岡蒸溜所」です。
静岡蒸溜所は豊かな自然に囲まれた静岡の奥座敷、その名も”オクシズ”にあります。オクシズで育ったヒノキをふんだんに用い、日本の美と西洋文化の融合をテーマにデザインされた美しき蒸溜所。
製造方法も独特で、静岡市産の杉材の発酵槽を使用したり、地元の薪の直火で加熱する蒸溜方法など、ウイスキー業界で類を見ない手法を取り入れています。
さらにウイスキー造りを体感できる見学ツアーを入場料1000円で随時開催しています。
静岡蒸溜所のウイスキーを樽単位で購入できる「プライベートカスク」の申し込みもほぼ即日完売。
さらには年1回、春にウイスキーを定期的にお届けする「静岡蒸溜所プレミアムボトル・セレクション」などのサービスも展開。
着実な戦略設計の元、波に乗る静岡の新生児は世界を照準に定めています。
本坊酒造
本格焼酎を製造するメーカーとして、1872年(明治5年)に鹿児島に創業。「宝星」や「桜島」などの焼酎が有名です。
1949年にウイスキー製造免許を取得してからは「鹿児島蒸溜所」「山梨蒸溜所」にてウイスキー造りを行っていました。
ふたつの蒸溜所は1980年代前半に閉鎖しますが、1985年に中央アルプス木曽駒ケ岳麓の山麓、標高800mの地に「信州マルス蒸溜所」が新設されます。
建設に携わったのはマッサンこと竹鶴政孝氏をスコットランドに派遣した摂津酒造時代の上司、「岩井喜一郎」。
日本屈指の蒸溜技師で、国産ウイスキー製造を夢見た”もう一人の男”として有名です。
ウイスキーが大不況に見舞われ、1992年に一度生産をストップしますが、2011年2月に再び操業を開始。19年ぶりに灯した蒸溜所の火はしっかりと岩井イズムを継承していました。
「マルス(ツインアルプス、3&7、越百)」や「シングルモルト駒ケ岳」などは国内でも人気の高いシリーズをリリースしています。
2016年11月にはクラフトウイスキーブームに後れをとるまいと、旧・鹿児島蒸溜所跡地に「マルス津貫蒸溜所」を新設。
さらには屋久島にはエージングセラーを建て、冷涼な信州、温暖な津貫、湿潤な海の近くの屋久島と3つのまったく異なる環境でウイスキー熟成を行うことが可能となりました。
2020年のファーストリリースに向け、急速に舵を切ります。
長濱浪漫ビール
滋賀県長浜市、琵琶湖のほとりでビールを造り続けて20年。
そんな地ビール造りの達人が、2016年11月に地ビール造りの施設内に”日本最小”の蒸溜所をオープンしました。
「長濱蒸溜所」ではひょうたんのような独特な形状をしているポルトガルのホヤ社製ポットスチルを使用。
2017年にはすでに熟成前の原酒を販売開始し、各地で好評を博しました。
長浜蒸溜所は、クラフトウイスキーとビール工場そしてレストランを併設しており、レストラン客席のカウンター越しに個性的なポットスチルを見ることができます。
「長浜エール」などのビールを楽しみながら、クラフトウイスキーのライブ感を存分に味わえます。
江井ヶ嶋酒造
創業は古く江戸時代1679年(延宝7年)。
兵庫県明石市にて清酒「神鷹」などを醸造しています。山名県北杜市にワイナリーも持っており、シャルマンワインも生産しています。
江井ヶ嶋酒造がウイスキー造りに着手したのは1919年。その後1984年に「ホワイトオーク蒸溜所」を設立。
主に「ホワイトオークシリーズ(ゴールド、レッド、地ウイスキーあかし)」などのブレンデッドウイスキーをリリースしていましたが、近年のシングルモルトブームを受け、現在では「シングルモルトあかし」などを限定生産しています。
焼酎用のサツマイモを保存していた倉庫を改装し、日本酒を寝かせていた樽で原酒を寝かすという新しい試みに挑戦中です。
なんでも甘酒のような”和テイスト”な香味があるそうです。
宮下酒造
創業は1915年、岡山に根差した酒造りを行っている老舗で、日本酒や焼酎、ジン、地ビール、リキュールなど多様な酒類を作っています。
ウイスキー製造免許は2011年に取得、2012年6月頃から焼酎用のステンレス製蒸溜器で試験製造を行っていました。
2015年に創業100周年を迎え、ドイツ製の銅製ポットスチルを導入。
岡山県岡山市中区の本社工場内にて本格的にウイスキーの製造を開始しました。
2017年6月30日には酒蔵観光施設として、また、宮下酒造のお酒と料理が楽しめるレストランやショップとして「酒工房 独歩館」をオープン。
併設されたレストラン 酒星之燿(しゅせいのかがやき)では、はウイスキーのポットスチルを見ながらお食事をしていただけるウイスキーパブとなっています。
小正醸造
創業1883年、本格焼酎の製造販売を鹿児島で行っている小正醸造。今から60年前に生まれた長期貯蔵米焼酎「メローコヅル」などが有名です。
2017年11月に鹿児島県日置市日吉町神之川にて「嘉之助蒸溜所」の稼働を開始。
蒸溜所の名前は同社の2代目社長・小正嘉之助に由来しています。
2代目社長・小正嘉之助は同社の代表ブランド「メローコヅル」を考案した張本人で、焼酎を樽で寝かせることによりまろやかな味わいを生み出すことに成功しました。
このまろやかさをウイスキーにも使えないかと考え、「メローなウイスキー」をスローガンに掲げ、ウイスキー製造に励んでいます。
2018年4月末には蒸溜所を一般公開。メローな土地から、メローなウイスキーが誕生します。
ウイスキーは日本の酒の一種である
スコッチやアイリッシュをはじめ、アメリカンもカナディアンも元々は各大陸に渡った西洋のケルト系の民族が始祖と言われています。
しかし世界5大ウイスキーの中でジャパニーズだけは竹鶴政孝という生粋の日本人が造り出しました。
そんな竹鶴氏の揺るぎない情熱がジャパニーズウイスキーの礎を築き、それを受け継いだプロフェッショナル達が100年足らずで世界に通じる品質にまで押し上げたのです。
伝統を重んじ、自然と向き合い、丁寧な手仕事にこだわるという日本人独特の和の心が、ウイスキーに日本文化を反映したと言えるのではないでしょうか。
ラーメンと同じように、ウイスキーは日本式のお酒にアレンジされたのです。
今日、ジャパニーズウイスキーは国際的な評価を得ると同時に、国産の原酒が使われず、スコットランドなどから輸入した原酒(バルク品)をブレンドし、ジャパニーズウイスキーを名乗るという問題も露呈されています。
海外原酒がすべて悪いわけではないですが、低品質のものがジャパニーズウイスキーとして横行している可能性は否めません。
もちろん新興メーカー、新蒸溜所が次々と登場し、革新的なアプローチも増えてくると思います。
新世代が日本ウイスキー文化を造る最中、混沌とする時代もきっと訪れるでしょう。いや、もう訪れているのかもしれません。
しっかりと目でわかる形で消費者に情報を開示し、継承してきた高き品質を維持、管理し、素晴らしいウイスキー造りが成されるよう期待しましょう。